宇野気地区編(絵本うのけの昔ばなし)の書から引用しました。 

西田幾多郎先生のお話 宇野気のいわれ 田吾作とおまん狐 いっちゃいもん地蔵 キミドン太鼓
連理の松と砂垣地蔵 小さな神様 旅のくれた絵 指江の弐太郎様 神徳寺の手洗鉢
椀貸し神様とチョボイチ祭り 不思議な象牙 蓮如さんの紅梅 おたきの不動尊 山田湯座屋
坊廻景政とうけの陣 ありごの大松 谷の灸 笠島の立石 カナシテのお地蔵様
                        


西田幾多郎先生のお話【全町】

明治三年(1870)、宇ノ気町の「森」で産声をあげた西田先生は、明治44年(1911)に
「善の研究」という本を発表しました。
これは、はじめて、日本人が書いた哲学書と言われているものです。

哲学と言う学問は、西洋で発達し,明治維新以後、日本に伝わりました。
日本の哲学は、はじめ、西洋の思想の翻訳や紹介にすぎませんでした。
しかし、「善の研究」以後西田先生は日本の哲学の指導者として次々と研究成果を発表しました。
西田先生の哲学は、それまでの西洋哲学とはちがう独自のものでした。

先生は、座禅を通して禅の境地を体験しました。それで、先生の思想の根本には仏教の考え方が
あるといわれ、その思想は「西田哲学」と呼ばれています。
西田先生の生家は代々庄屋で、学問を尊ぶ家風でした。東京帝国大学哲学科選科に進み

卒業後は、金沢の第四高等学校や、東京の学習院大学で教えたのち、京都帝国大学教授となりました。
「善の研究」は四校時代に学生に講義した事をもとに、書いたと言われています。

宇ノ気小学校では、今でも毎年、「西田幾多郎先生頌徳(しょうとく)記念県下学童話し方大会」が行われています。
哲聖と仰がれた西田先生の郷土の後輩として偉大の業績をしのび
その尊い精神を受け継いでいきたいと言う思いが、力強く流れているようです。


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宇野気のいわれ【宇野気】

むかしむかし、宇野気は、湿地帯や荒れた原野でした。誰一人住む人もありませんでした。
そのころの、河北潟は今の宇気、横山、内高松あたりまで広がっており、宇野気はその潟の淵にありました。
河北潟は水鳥たちの楽天地で鵜も群れをなしてやって来ました。この鵜の群れが落とす毛が数多く見られました。
そして、誰言うとなくこの地を、「鵜」の「毛」と言うようになりました。

やがて、時代が進み河北潟も年々狭められていくと「鵜」の「毛」にも人が移り住むようになり
できた集落を、「鵜の毛」を呼ぶようになったと伝えられています。
そして、江戸時代の延宝二年(1674)には、うのけ橋付近で、宇気の人々を中心として
湿地帯や原野の開こんが盛んに行われ、宇気の出村「宇野気新村」ができました。

「鵜の毛」から「宇野気新村」となり、「宇野気」と呼ばれるようになったのは大正十年(1921)からのことです。
わずか数個の集落から始まった「宇野気」は明治37年(1904)の七尾線の開通により
人も家も増えつづけて、今の宇ノ気町の中心地区となってきたのです。


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田吾作とおまん狐【七窪 】

ある日、田吾作は高松町へ主人の用足しに行きました。帰り道この七窪あたりで薄暗くなってきましたが
田吾作は、ちっとも急ごうとはしませんでした。
一度でいいから、おまん狐がばかすのを見て見たいと思ったからです。

すると、ちょうど七窪を過ぎたところで、狐の姿を見つけました。
狐は、椿を沢山拾い集めて、きれいな風呂敷を作りました。それから葉っぱで重箱を作りました。
そして、そこらに落ちている馬のくそをひろい、ひとつひとつ丁寧に重箱の中に並べると、風呂敷で包みました。
最後に、狐は三回クルクルッとまわって美しい着物を着たお嫁さんになりました。

田吾作は、狐のお嫁さんの後をつけて行きました。何処をどんなふうに歩いたかわかりませんが
ずいぶん長く歩いた後、狐は一軒の家につき、「今もどったよ。」と言いながら、中へ入っていきました。
田吾作は、「狐め!嫁になりすまして・・・。もしあの重箱を出して誰かに食べさせたら、おらが、それは馬のくそだ!
と言ってやるぞ。」とその家の障子の破れ目からのぞいていました。

狐のお嫁さんは、さっきの重箱を出して「これは里の母さんが、おっかさんにあげてくれって、わざわざこさえてくれた
かいもちや」と言いました。家の中には、おばばと二人の子どもが見えました。
やがて一人の子が立って重箱をおばばの前へ置きました。
おばばは、重箱をあけて「これはうまそうなかいもちや、お前にも一つ、お前にも一つ。おばばも一つもらおかの。」
と言いながら、かいもちをとりわけました。田吾作は気が気ではありません。

「食うんじゃない。馬のくそやぞ。」と大声をあげて叫びましたが、おばばに聞こえているのか、いないのか
かいもちを持ったままです。田吾作は前よりも大きな声で叫びました。
「馬のくそやし、食ったらあかんぞ!」すると誰かがピシャリと田吾作の顔をぶちました。

田吾作が、おどろいて顔を上げるとがんこそうな男の人が怒った顔で田吾作をにらみつけていました。そして
「このばかやろう!どこのどいつじゃ!うちの馬の尻の穴をのぞいて、わめいているやつは!」と
大声でどなりつけました。よく見ると、田吾作は見知らぬ馬小屋で馬の尻の穴をのぞいて
「馬のくそやぞ、食ったらあかんぞ!」とわめいていたのでした。


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いっちゃいもん地蔵【多田】

むかし津幡に、いっちゃいもんという商人がいました。いっちゃいもんは、あたりの村々をまわって商いをしていました。
ある日の事。予定が大きく遅れて、いっちゃいもんが約束をしていた指江のおとくいさんの家へたどり着いたのは
真夜中でした。家の人は「こんな遅くに、一人で帰るのはおそろしかろ、泊まっていくこっちゃ。」とひきとめました。

しかしいっちゃいもんは、ていねいに断って帰っていきました。いっちゃいもんの帰り道で
多田にかかる友碇(ともいかり)の石碑があるあたりは、それは寂しいところでした。
いっちゃいもんが指江を出てまもなく領家の人々は、友碇の方からものすごい掛け声が響きわたるのを聞きました。
おどろき、不思議に思った人々が、外に出てみると友碇付近の街道の松に、提灯がいっぱい下がっていました。

人々は「おーっ!天狗様のお出ましじゃ。おとろしい。おとろしい。」と身震いして家に入りました。
朝になると坪子(つぼこ)の畑の所に倒れて息絶えた、いっちゃいもんの姿がありました。
「いとしや、いっちゃいもんさん。なんで、こんな姿になったがいね。」「よんべ、天狗様に出くわしたんじゃなかろうか?」
「天狗様の剣術のけいこのあいてにされたんかなぁ?」「いとしや。いとしや。」

村の人々とともに、ちょうどそこを通りかかった尼さんもたいそう、いっちゃいもんの死を哀れみ、道端に地蔵さまを
たてて弔いました。この時から村人は、この地蔵さまを「いっちゃいもん地蔵」と呼び、前を通るたびに
必ず手を合わせていったということです。


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キミドン太鼓【狩鹿野】

むかし、むかし、狩鹿野では、田植えが終わり梅雨に入ってから、二ヶ月も雨が降り続いた年がありました。
やっと晴れ上がったのは七月も末のころでした。ところが待ち望んだ日照りに「やれ、やれ。」と思ったのも束の間
今度は、害虫の大群がおしよせてきました。村の人たちがとうしたものかと、途方にくれていると
村一番のものしり長兵衛さんがやって来て、「皆の衆、今晩皆で火を燃やそうではないか。」と言いました。

「そうだなぁ。飛んで日に入る夏の虫ということもあるでな。」「やろう、やろう。」という事で村の人達は、用水の堤に
ワラを持ち寄り、うず高く積みあ上げて火をつけました。
すると、四方、八方から虫の大群が炎をめがけて飛び込んできて音をたてて燃えていきました。
村の人達は、パチパチと燃えている虫の姿をながめて、喜び合いました。そこで、また、長兵衛さんが言いました。
「皆の衆、今度はみんなで、松明を持ってまわろうではないか。」村の人達は「よっしゃあ。」と、手に手に松明を持ち
夜明けまで田んぼのあぜ道をかけめぐりました。

たくさんの虫たちは、炎に飛び込んでは焼け落ち、一夜にして全滅しました。
「これは、まったく長兵衛さんのおかげじゃ。あんやと。」と村の人達は酒や魚をもって長兵衛さんの家へ集まりました。
長兵衛さんは、「皆の衆、その酒や魚は、ぞうぞ神様に供えて下されや。」と言って静かに夕べのことを話し出しました。
「実はな、夕べ、わしは、虫の事が気がかりで布団に入ったがなかなか、眠れずにおったがや。そしたら夢かうつつか
白髪の老人がすーっと現れてな。『わらをつんで火をつけよ。松明を持って回れ。そうすれば、悪い虫、一夜にして
退治できるであろう。』と二回繰り返して、またすーっと消えなさったんじゃ。」

それを聞いた村人達は、「そりゃ神様じゃ。」「ありがたい事や。神様のおかげや。」と笛や太鼓でにぎやかにお礼の
祭りをはじめました。ところが不思議な事に、この笛や太鼓の音が誰の耳にも、「キミドン、キミドン、キミドンノオカカ」
と聞こえたのです。何の意味やらわからぬが、ありがたい神様の声です。
それからと言うもの、この松明と、jキミドン太鼓のお祭りは、毎年、ずっと続けられてきました。

それから、百年もたったある年のことです。祭りの日だと言うのに、朝からひどい雨が降り、いっこうにやみません。
そこで、「こりゃ、松明は無理や。あしたにせんか。」と一日のばされることになりました。
けれども、次に日になっても、またその次の日になっても、雨のやむ気配はありません。
「しかたない。今年は、祭りはやめにせんか。」と、とうとう、祭りは、取りやめになりました。
そして、その同じ年、狩鹿野の集落が二十軒も焼けてしまう大火事が起こりました。
村の人達は、「祭りをやめたし、神様のばちじゃ。」と、うわさしあいました。
それ以来、狩鹿野では、どんな事があっても、八月七日の松明とキミドン太鼓の祭りを、休むことなく
毎年、盛大に続けています。


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連理の松と砂垣地蔵(れんりのまつとすながきじぞう)【横山】

むかし、むかし、賀茂神社が鉢伏から横山にお移りになった大同二年(八〇七)のことです。
村の人々は立派な社殿を建てようとしていましたが、村の木を切っただけでは足りませんでした。
そこで、世話役の人々が全国から寄進をいただこうと、飛び回ったお陰で、各地からたくさんの丸木が木津の浜に運ばれて来ました。浜は、人夫たちの勇ましいかけ声で、それは、それは、活気付きました。

日がたつにつれ、丸木の山は、うず高く積み上げられていました。
ところが、働いている人達が、つぎつぎと高い熱を出し、寝込んでしまったのです。
こうして浜にはついに人影も見えなくなりました。おどろいた村人達は、「これは、何かのたたりじゃないか。」と道祖神の石碑を建て、そのまわりに松の生垣を作ってお祈りしました。

みんなの願いがとどいて、神様のおゆるしが出たのか、人夫たちの高い熱もだんだんと下がり浜は再び人々で
賑やかさを取り戻しました。松の生垣もすくすくとのびていきましたが、どうしたわけか、どの松も二本の根元がしっかりと結びついているではありませんか。
人々は道祖神を前より深く尊敬するようになり、この不思議な松を大事に育てるようになりました。

それから数年たって、木津の戸数が増え、横山と別れて独立する事になりました。
そこで、道祖神も今の国道159号線の近くへ移りました。松の生垣もまたこの石碑を囲んで元のように植えられました。
ところが、この松の根元もまた二本がひとつの根連なりになっていました。

昭和のはじめ、木津と横山の境界が決められると、道祖神は三度、横山地内の砂垣の地に移されました。
すると不思議も不思議、さきの連理の松は一晩のうちに道祖神を追ってこの地に飛び移ってきたのです。
この話は、たちまち村から町へと風のように伝わり、遠くから多くの人々が来るようになりました。
そして、「二本の松がしっかり結び合っている、縁結びの神様だ。」と、若い娘を持った親達の信仰は、ますます深くなっていきました。道祖神は、多くの人々の願いを聞き届けて下さいました。越中の佐助さんは、自分の願い事を聞き届けられた喜びのあまり道祖神の石の上に地蔵尊を祀りました。

その地蔵尊は手と足の指が共に六本づつで、それは「娘達よ、あなたたちは六根清浄(ろっこんしょうじょう)の、真っ白な白無垢(しろむく)を着られる嫁になるんだよ。」と言う願いをこめて建てられたものだそうです。


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小さな神様【森・向野 】

昔、森の村人達は、みな田んぼで働いていたので、農作業のほかには、何の仕事もなく、これといった楽しみもありませんでした。ただ、若者たちは、盆や仕事帰りの夕方、広場に集まって相撲をとったり大きな石を持ち上げる「盤持」(ばんぶち)で力くらべをしました。そして、鶏をつぶしては、酒を飲み、歌を歌うのが唯一の楽しみでした。
子供たちはというと、膝小僧の出る短い着物を着て、前がはだけるのもおかまいなしに、裸足で野山をかけめぐりました。
毎日、毎日、鬼ごっこ、陣とり、かくれんぼ、いくさごっこ、と遊びまわり、お腹がすくと兄弟そろって家に帰りました。

ある秋の日暮れ時でした。さっきまで、大声をはりあげて遊びまわっていた子供達の姿が突然消えたしまったのです。
あんなに、にぎやかだった野原がシーンと静まりかえりました。
日が沈み、家々の窓から薄明かりがもれてきました。どの家でも、忙しく夕げのしたくを終えて、子どもの帰りを待っていました。しかし、誰一人帰ってくる子はいませんでした。

夜もしんしん更けてゆき、村中が大騒ぎになりました。大人たちは、「きっと天狗様のいたずらに違いないがや。」と手に手に提灯を持ち、太鼓をたたき、鐘を鳴らしました。そして、「天狗様の大嫌いな魚のサバんこと言うがやぞ。」
「ほや。ほや。天狗様はサバが嫌いやということや。」と、相談しあい、口々に、子どもの名を呼んで歩きました。

「さば食うた太郎やーい!」「さば食うた二郎やーい!」「さば食うたおよしやーい!」みんなで、村中をくまなく探しましたが十人の子供達はどこにもいませんでした。弱りはてた村人たちは「こりゃ、もう神や仏に頼るしかないわいね。」
「ナミアムダブツ。ナミアムダブツ。」「どうか、子供達をもどしてくだされ。」と、一心にお祈りを続けました。
その願いが通じたのか、「ほ・こ・ら。ほこら。祠!」と、ひらめくものがありました。

「じゃが、あんな小さなところに、いるわけないがや」「子どもかて、ニ〜三人入ればいっぱいや。」
「まさか・・・と思うけんど、見ているこっちゃ。」と、おそるおそる小さな祠の戸を開けてみました。するとどうでしょう。
中には、十人の黒い影が硬く石のように寄り集まってしゃがんでいるではありませんか。
「おった!おったぞ!」村人達は、おどろきと喜びの声をあげました。

一人、二人、三人、四人・・・十人と、小さな祠から出された子供達は、親の胸に飛びこんで声もなく、ふるえていました。あの晩、天狗様にどんな目にあわされたものやら・・・誰も語るものはないけれど・・・。
それ以来、子供達は暗くなると外へ出て遊ばなくなったという事です。


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旅人のくれた絵【内日角 】

むかし、内日角にあぶらや様、大地主が住んでいました。
ある晩のこと一人の旅人が門の前に立ち、「旅の途中で日が暮れてしまいました。一晩泊めていただけないでしょうか。」と言いました。これを聞いた地主様は、快く泊めてやりました。ある朝、旅人は、地主様の温かいもてなしにお礼を言うと
一枚の絵を残して旅立っていきました。
その絵には、桜の木のそばに侍と馬が描かれ、「行き暮れてこのしたかげを宿とせば桜この家の主(あるじ)ならん。」と詠んでありました。地主様は、「あの旅人は名前こそ言わんかったが、きっと名のある絵描きさんに違いない。」
とその絵を氏神様に奉納しました。
その時の絵は、今でも内日角八幡宮の正面左側に掲げられ大切にされています。


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指江の弐太郎様【指江 】

指江の東北方面に「赤城山」というなだらかな丘がありました。その赤城山に風化した石の神様がまつられています。
むかって右のイチ姫さまを春の神様。左の薬師さまを夏の神様と呼んでいます。
ところが、その昔、イチ姫様は、「壱姫・弐太郎」という二体で一対の神様だったというのです。

それからいつの間にか、弐太郎さまの姿が見えなくなりました。村人達は誰もその本当のわけを知りませんでしたが
「がけ崩れの時に、どこかへ行っていまわれた。」とか、「子供達が、持ち出して、崖に落としてしまった。」とか
うわさ話をしているうちに、時は流れ、弐太郎さまのことは、すっかり、忘れてしまいました。

明治三十年(1897)代に入ると、指江に大火事が二度も続いておこりました。そして、松本宗助さんの家が、ゴトゴト音を立てて動くという不思議なできごとが続きました。気味悪くなった宗助さんはさっそく、八卦に見てもらいました。すると、
「村の人達は、神様を粗末にしている。神様は崖の中で泣いておられる。早く出してくれと催促しておられる。」という事です。宗助さんは、すぐに、村の人達と崖崩れの場所を掘り起こし、弐太郎様を探しましたが、探し出す事は出来ません。
しかし、宗助さんのゴトゴト動きは、いっこうに止まりません。そこで、宗助さんは、大工さんに頼んで家をしっかり押さえ込んでもらう事にしました。


大工さんが仕事にかかろうとすると、庭先で、土台石にかっこうの石を見つけました。それを、ポーンと放ると
コロコロ転がって、コロリトと立ちました。大工さんは、「おや?」と思って、もう一度、ポーンと投げると、またコロコロ転がってコロリと立ちました。何度くり返しても、その石は、コロコロコロリ!と立ちました。

それを見ていた宗助さんは、「おお!これこそ、探していた神様じゃ。弐太郎様じゃ。」と言いました。
そして、その丸い石を大事に持っていき、家の北側に小さな社を建てておまつりしました。その後宗助さんの家は、一度も動きませんでした。
それから毎年、四月六日の赤城祭りの日には、二太郎様のお祭りをしてるということです。


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神徳寺の手洗鉢【気屋 】

むかし、天正十二年(1584)、越中(富山県)の領主佐々成政が、豊臣秀吉に反旗をひるがえし、前田利家を主力とした
秀吉軍と、加賀・能登の地を舞台に、合戦をくりひろげました。(末森合戦)
その頃、気屋には、百数十年の歴史を誇った神徳寺というお寺がありました。この神徳寺、白山社(しらやましゃ)と一体ものとして、白山神社のあった地一帯に建ち並ぶ七堂伽藍の立派な姿で人々から尊ばれていました。

指江と横山の間には、佐々軍の退路になっていました。気屋にさしかかった佐々軍は、まだ夜の明けきらない闇を破ってふもとの方から、ときの声をあげました。松明を手に、たくさんの佐々軍が神徳寺の境内へどっとなだれ込んできました。
多勢に無勢で、火はまたたく間に燃え広がり大伽藍も、一朝にして灰になりました。あとには、黒焦げになった柱や、土台石、それに、本堂前にあった手洗鉢が、ぽつんと一つ残っているだけでした。
それは、戦いに敗れた神徳寺のあわれな姿でした。

そして、その子孫が、気屋の正覚寺の住職をついでいることが、寺伝にも記しされています。
ですから、焼け残った手洗い鉢が今も、正覚寺本堂前にあるというのも、うなずけるお話です。


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椀貸し神様とチョボイチ祭【上山田 】

むかし、村の南の方のこんもりとした森に、大きなほら穴があり、そこには、神様が住んでいました。
村の人々は、みんな貧しい暮らしをしていたので、家に、結婚式や法事などの物入りがあると、必要なご膳やお椀を、ほら穴の神様に頼んで、借りていました。
「神様、明日はおじいさんの三十三回忌の法事です。どうぞ、お客さんのご膳とお椀を二十人前貸してください。」
「ほら穴の神様、あしたは、うちにお嫁さんが来る日です。祝いのお客さんのご膳とお椀を十五人前お貸しください。」
ほら穴の前で、こうしてお願いすると、翌朝には、必ず頼んだ数だけのご膳とお椀がきちんと並べてありました。こうしてお願いすると、翌朝には、必ず頼んだ数だけのご膳とお椀がきちんと並べて出してありました。こうして村の人々は、何かあるごとにほら穴の神様に道具を借りて、無事に行事をすませると、元どおりにそろえて、お返ししました。

また、村の人々は、三月一日の春祭りをとても楽しみにしていました。
祭の時は、ほら穴の神様の前に、近くの村々から、たくさんの人たちが集まり、村人も総出で『なめ形賭博』を開くのです。
そこで、ほら穴の神様を『賭博の神』、祭を『チョボイチ祭』と呼ぶようになりました。
♪♪和田や山田のチョボイチ祭り、負けてくやしけりゃ、又御座れ♪♪と、歌まで出来ました。
ところが、ある日の事、村にたいへんな不心得者がでて、神様のご膳を一枚お返ししなかったのです。
ほら穴の神様は、ひどく腹を立てて、それからというもの、いくらお願いしても、もう二度と、ご膳もお椀も出してはくれませんでした。そして、お祭り賭博もきびしい取り締まりにあい、村人全員がお裁きをうけ、ひどく罰せられ、ほら穴の神様の前で、賭博するものもぱったりといなくなりました。
今では、ほら穴も崩れ落ち、熊笹が生い茂った森の中で、大きなけやきの根本が、御神体になっています。

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不思議な象牙【内日角】

むかし、内日角に伊助という、たいそう働き者のじいさんが住んでいました。伊助じいさんは、年中、村から村へと馬車を引いて、荷物を運んでおりました。
そして、じいさんの腰には、いつもつやつや光る象牙の煙草入れが手ぬぐいと一緒にぶら下がっていました。象牙はじいさんの大切にしているお守りだったのです。
ある日、じいさんは、荷物を運び終え、空馬車を引いていると、「伊助じいさん!おらたちも馬車に乗ってみたいなぁ。」と、
学校帰りの子供達が、乗せて欲しそうに馬車についてきました。その中にしくしく泣いている子がいます。
「はて、どうしたのじゃ?」と聞いてみると、「昼の弁当を食べているとき、のどに魚の骨が引っ掛かって、痛くて痛くて仕方がないのです。」と、答えました。
かわいそうに、何とかできないものかと考えた伊助じいさんは、「骨よとれろ、痛みよなくなれ!」と言いながら、お守りの象牙でその子ののどを何度も何度もさすってやりました。すると、どうしたことか引っ掛かっていた骨がスーッと取れました。
子供達は、笑顔で帰っていきました。この象牙の不思議な力に、周りにいた誰もが驚きました。

又、ある日、村の人がのどに魚の骨が引っ掛かって苦しんでいるムジナを見つけました。ところがムジナはいつも、人を騙し、脅し、悪さをしてはみんなを困らせていたので、村の人達は、「きっと、罰が当たったんだろう。」と言いあい、輪になってただ見ているだけでした。
しかし、中の一人は、苦しんでいるムジナがだんだん可哀そうになり、伊助じいさんの象牙を借りてきて、ムジナののどをそっと撫でてやりました。
しばらく撫でているうちに、引っ掛かっていた骨がスーッと取れました。そして、ムジナはよろよろ動き出し、水を飲みはじめると目からポロポロ涙を流し、深々と頭を下げて去っていきました。それ以来、ムジナの悪さはパッタリとなくなったという事です。

又、伊助じいさんの不思議な象牙の事は、人々に広く伝わり、骨がのどにかかった時、遠いところからでもわざわざ借りに来たと言うお話です。


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蓮如さんの紅梅【大崎 】

文明七年(1475)三月のことです。親鸞聖人から八代目の蓮如さんが、浄土真宗を広めるため、大崎の亀塚御坊へおいでになりました。
蓮如さんは、文明三年(1471)七月に、宗教上の争いを避けて、京都を離れました。そして、吉崎(現在の福井県坂井郡金津町)を足がかりにして、二俣(金沢市)の本泉寺や、木越(金沢市)の光徳寺などで、浄土真宗の教えを広めてこられ
ました。浄土真宗(一向宗)は、「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」と念仏をとなえれば、この世の苦しみから救われると教え、たちまち農民を中心に土地の人々の間に広がっていったのです。

蓮如さんが、大崎へ来られることを伝え聞いた人々は、「今度、亀塚御坊へおいでる蓮如さんは、たいへんえらい方やで。蓮如さんのお説教は、わしらにもなじみやすくて、人気があるそうや。」「それなら、一度蓮如さんがおいでたら、亀塚御坊へお参りに言ってみるかいね。」と、うわさしあいました。そして、蓮如さんがおいでになった日、亀塚御坊は人でいっぱいになりました。御堂の入り口に立たれた蓮如さんは、梅ノ木の枝を杖にした旅姿でした。

蓮如さんは、梅の枝を勢いよく地面に立てると、「私の申すことが本当なら、この杖から根や枝が出て、立派な梅の花を咲かせるでしょう。」と、言いました。すると、どうした事でしょう。たった一晩で、梅の杖が、立派な枝を出し、八重咲きの見事な紅梅が咲いたではありませんか。これを見た亀塚御坊の信慶【(とけい)亀塚家十三代目】さんも村人達もびっくり仰天。
いつのまにやら御堂は、「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」と、となえる声でいっぱいになりました。

この時から、この御坊は、真言宗から浄土真宗に改められました。
今でも三月には、大崎の専信寺境内でこの紅梅を見る事ができます。その美しい花から、蓮如さんをしのぶのです。


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おたきの不動尊【上田名 】

菩提寺坂の登り口近くに小さな祠があります。「おたき不動尊」と呼ばれ、願い事がかない、難病が治るありがたい神様としてこのあたりでは、倶利伽羅不動、大岩不動と並び、尊ばれていました。

おたきの不動尊の境内には、「おたきの水」という、三メートルの高さの岩間から流れ落ちる滝がありました。それは、手を切るような冷たい透き通った水で、霊水として、万病に効き、眼を洗えば重い眼病も治り、滝にうたれると頭がよくなると言われてこの水をもらいに来る人、滝にうたれに来る人が絶えませんでした。

昭和十八年(1九四三)戦争がはげしくなって神戸から、上田名に疎開してきた忠作じいさんは、とても信心深い人でした。毎日、毎日、1・五キロメートルの道のりを、日参し、朝晩二回般若心経のお勤めを欠かしませんでした。

いつの頃からか、忠作じいさんが、お参りに行くと、不動様の軒下から、真っ白な蛇があらわれるようになりました。そして、忠作じいさんは、この白蛇を不動様の化身と信じ、敬いました。
ある時、忠作じいさんは、開墾(かいこん)に使った鍬(かま)がへったので、鍛冶屋へ修理に持っていきました。すると、忠作じいさんの膝元から、白蛇がチョロリと顔を出したのです。
忠作じいさんはあわてて、「怖がらんでくれ。この白蛇は、おたきの不動様の仮のお姿ですわい。」と話しました。
そこで、鍛冶屋は、安心して、鍬の修理をしたということです。

そして、数日後、鍛冶屋は、五升の鏡餅を持って、おたきの不動尊にお参りし、持病の腰痛がすっかり治ってしまいました。
この話が広まると、白蛇さまをひと目拝もうと、お供え物をもって、遠い村からも、毎日のように大ぜいの人々が来るようになりました。

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山田湯座屋【下山田 】

むかし、下山田に「山田湯座屋」という所がありました。亜炭を使って、沸かしたお風呂で、病気や疲れを治せる名の通った湯治場でした。
農家の多いこの辺りの人々は、農閑期になるとそろって、湯治に集まってきました。お百姓さんたちにとって、ここは、農業での疲れを癒し健康を増進し、人と人とのふれあいを楽しむよい場所でした。

ゆっくりとお湯につかり、おいしいご馳走をつつきながらお酒を飲んで、話に花を咲かせたそうです。
そして現在、山田湯座屋の跡地は、うのけ総合公園になっています。

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坊廻景政(ぼんまわりかげまさ)とうけの陣【宇気 】

むかし、日本の国のあちこちで、源氏と平家のはげしい戦いが続いている頃の事です。
坊廻景政は、梶原景時の命を受け、加賀から能登へ攻め込む平家の軍を防ぐために、宇気の地に守りの陣をしきました。宇気は、能登の守りにとっては、最適絶好の地形でしたから、景政は、高台の東を除く三方に、高さ二間、幅一・五間、延長七十一間の土塁をめぐらし、土地出身の土豪らを指揮して、守りを固めたのです。

景政は、日夜、戦に備えて、いろいろな準備を怠りませんでした。茶臼山の上に、「のろし台」を設け、敵の様子を偵察しながら、白との連絡をとれるようにしました。「マト場」「中馬場」では、一日中、乗馬や、弓矢の練習を続けていました。
のろし台から、黒い煙が立ち上ると、たちまち、隊列を整えた人馬が、「ワアー!ワアー!」と、声をあげて、馬出橋あたりへ出陣し、激しい戦いをくりひろげました。戦場になった塚越に、塚を築いては、この戦いで命をおとした死者を葬りました。
これら、塚越の饅頭形をした塚は、四ヶ所にもなったということです。

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ありごの大松【鉢伏 】

むかし、谷と鉢伏の堺に、「ありごの大松」といわれる大きな松の木がそびえ立っていました。
その松のぐるりは、三メートル以上もあり、高さは、一体何メートルぐらいあったものか、遠く離れた内日角の船着場からも見えるほどの見事な大木でした。

このありごの道はj、昼でも暗く、とても一人で歩くにはさびしかったので、誰言うことなく、「あの大松には、天狗が住みついているに違いないぞ!」といわれていました。それでもここは、能登と加賀を行き来する近道として、たいへん便利な道でした。

ある日の事、次郎平さんは、鉢伏の秋祭りに呼ばれ、お重に詰めたご馳走を手にして、一人鼻歌まじりでありごの夜道を帰っていきました。途中、だんだん大松に近づくと、気のせいか、急に体がぞくぞくしてきました。一歩一歩、歩くたびに狭い山道は、ガサガサト枝葉の揺れる音がして、酒の酔いもすっかり覚めてしまいました。「何て、気味悪いんだろう。」
その時です。どこからともなく、生ぬるい風がフワッと吹いてきました。次郎平さんは、この気味悪さにもうたまらなくなって、一目散に走り出しました。
やがて朝になりました。次郎平さんは、家の布団で目を覚ますと、「はて?わしゃ、どうしたんだろう?よんべのことが何もわからん。」と首をかしげました。そして、枕元においてある。きのうのご馳走の重箱をあけました。
あけてびっくり仰天した次郎平さんは、ポカーンと口をあけたまま、座りこんでしまいました。「ない、ご馳走がない・・・。」一の重の中は空っぽで、二の重のすみっこに、鯖寿しだけがチョンと残っていました。

「はぁーっ。さては、天狗のしわざじゃな!甚平じいさんも、市郎平も同じ目にあったと聞いたが、天狗は鯖が嫌いじゃからなぁ。」このことは、すぐに村中のうわさになりました。そして、それからも、大松の下を通って物を盗られたとか、里帰りをしたお嫁さんのまんじゅうが無くなったとか、不思議な事がたびたび起こりました。
そこで、村の人々は、安全を願って、大松の下にお地蔵様を安置しました。

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谷の灸【谷 】

むかし、むかし、千五百年もむかしのこと。
賀茂神社が、京都から移ってこられたとき、そのお供の中に治郎右衛門という人がおりました。
治郎右衛門はずっと、神をお守りしていましたが、平安時代には、毎年、京都へ神馬を献上する慣わしがありました。
神馬は、人より大切にされ、朝から晩まで、馬の病気や怪我などに気を使いたいへんな苦労をしました。

 そんなある日、治郎右衛門の家に、一人の旅の僧が来て、一夜の宿をたのみました。
治郎右衛門は、快く、僧を招き入れ、お世話をしました。次の朝、僧は、「一夜の宿のお礼として、灸のすえ方を教えましょう。」と、ていねいに、灸を伝授して旅たって行きました。
治郎右衛門が、その灸を大切な献上場馬にすえてみると、大変良く効きました。
 それからというもの、治郎右衛門は、大切な神馬はもとより、人の病気や怪我の治療に、この灸を施して、皆に喜ばれたのでした。そしてこの灸の秘伝は、治郎右衛門家代々受け継がれていきました。
室町時代に、治郎右衛門の家から出て、谷の地に結婚し新居をもった娘がいました。この娘が灸の秘伝を受けてきたので、その後は、代々、女の人が秘術を伝授され『谷の灸』として知られるところとなりました。


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笠島の立石【笠島 】

むかし、むかし、笠島の村人達は「おらっちゃ毎日、神様を見おろして歩いとるのは、もったいなこっちゃのう。」「ほやな!。ばちでもあたらにゃよいが。」と、神様の場所を気にかけながら、行き来していました。
  そんなある日、村人達は、とうとう、この神様を、道より高い上堂社へ移す相談をしたのです。そして村中、総出で、立石を動かす事になりました。立石はたいへん重く、その上、急な坂道です。縄をかけて引く人、後ろから押す人、村人たちは、みんな汗びっしょりになりました。とうとう仕事なかばで、日が暮れてしまいました。そこで、明日、続きの仕事をする事にして、みんな家に帰りました。
 
ところが、翌朝の事です。村人たちが、きのうの場所まで登ってくると、そこにあるはずの立石がありません。みんなで、あちら、こちら探し歩きました。
 しばらくするうちに、「あったぞ!。見つけたぞ!。」と、叫ぶ声が聞えました。村人達は、声のする所へ、かけつけました。すると、そこは、元の立石社だったのです。元の場所に、元どおりの姿で立っている御神体を見て、村人達は、「神様は、この場所を移ることを嫌がっていらっしゃるのだろう。」「この場所にいたいというお告げや。」と、考えました。
そんなことがあってから、笠島の立石は、ずっとここに祀られているのです。
 
また、立石社のわきには、きれいな湧き水が出ています。村人達は、この泉も水の神様として大切にしました。そして、この水は、目のやまいに良く効くと言われ、遠くからも、目を洗いに来る人々がいたと伝えられています。

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カナシテのお地蔵さま
【余地 】

余地から細い道を登っていたところに、『カナシテ』という地名が残っています。この辺りは、金津峠といわれ、七塚から富山県の石動へ通り抜ける道として、明治(1868〜1911)の初め頃まで、利用されていましたが、今では、すっかり忘れられ、ポツンと残る古いお地蔵様だけが、昔をしのんでいます。
 
それは、今から四百年も前の、天正十二年(1584)九月の事でした。末森城の合戦で、越中富山の城主、佐々成政は、加賀城主・前田利家と戦い、前田家の奥村永福(おくむらながとみ)に敗れました。
 敗れた成政軍は、散り散りに逃げ出し、途中、余地へ迷い込んできました。余地の親切なおばあさんたちは、たとえ敵の兵士であっても、傷ついた人を放っておくことはできませんでした。日暮れの山道をこっそり案内して、「さぁ、ここが富山へ帰る道じゃ。」と、逃げ道を教えてあげました。
 
ところが、追っ手にこの道を知られるのを恐れた成政軍の兵士は、刀をぬいて、ひとりのおばあさんの首をはねました。
おそろしくて、やっとの思いで家まで逃げ帰ったおばあさんたちは、「人の親切、あだでかえされ、悲しいて、どうにもならん。」と、泣きました。けれども、このことが、利家軍に知れると、今度は、「敵兵を逃がすとは、ふとどきなやつらめ!」と、道案内をしたおばあさんたちをしばって、峠へ連れて行きました。
家族のゆるしをこう声もむなしく、おばあさんたちは、その場でバッサリ首を斬られてしまいました。

残された人たちは、「人の心をなくした鬼に、うちのおばばが殺された。悲しい、悲しい。悲しいて、どうにもならん」と、泣きくずれました。

そして、その地にお地蔵さまが、たてられ『カナシテ』という名で呼ばれるようになったのです。

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