七塚地区編 (七塚町史)の書から引用しました。
応現寺の太子像 雨ざらしの御神体 おまん狐 ばかばか草 お小夜の松 天からふった鯉 木も伐らずに草刈った お銀ま・こ銀ま ダラのアンサマ 鯖食った長次 りくつこきの又次 表屋理兵衛の夢 助実家の「面」 白尾のチャンギリコ 気象予測
応現寺の太子像【木津 】
今から四百年ほど前、能登の一宮の沖でタイの夜引きをしていた漁師、五朗兵衛は、その夜に限って不漁なので、
がっかりしていた。やがて、夜の白みがかって最後の網を舟端に引き寄せると、キラキラ光るものが見えた。
さてはタイの大漁だと、疲れも忘れて引き上げた。しかし、タイは一匹もおらず、金色に輝く一体の仏像がかかっていた。
信心深い五朗兵衛は、その像をおしいただいて帰路につこうとした。しかし、秋近い海の様子は変わりやすい。
つい先刻まで、穏やかだった海が急に荒れはじめ、舟はだんだん沖へ流されだした。
疲れ果てた五朗兵衛は、思わず拾いあげた仏像にすがりついた。
すると不思議や、舟の行く手だけが鏡のように静かになり、五朗兵衛は、無事に浜辺にたどり着く事が出来た。
その夜、立派な僧が枕元に立ち「その像を加州の国、木津浦の応現寺へ返すべし」と告げた。
同じ夢のお告げを受けた住職の浄山が、すぐに一宮に行き、
迎えたのが現在、応現寺の御堂にある聖徳太子二歳の立像であるという。
七塚の民話へ戻る
雨ざらしの御神体【白尾 】
じいさん・ばあさんの昔よりも、もっともっと昔の話。
「光が見えたぞ!」。浜から一人の漁師が叫びながら飛んできた。鰯(いわし)の光だ。鰯の群来だ。
舟は、波しぶきをくぐって「つばめ」のように急いだ。だが、不思議な事に、この日は、網の中に一尾の鰯もおらず
一つの大きい石塊がかかっているだけだった。
不漁からくる不機嫌さ、裏切られた腹立さから、ひとりの漁師が、いきなりその石をけとばし、小便を、ジャアジャアと浴びせかけた。ところが、その漁師は、たちまち足腰が立たなくなって、砂上に転々と苦しみもだえはじめた。
漁師達は、「神罰だ、きっと村にも、もっと大きな災害が降りかかるに違いない」そう思って、恐怖におののいた。
漁師達の群れに、白尾村の信心深い新家(あたや)と呼ばれる人がいた。その石を海水で洗い清め、非礼をわびて、長く神として、祀る事を誓い、一心に祈った。
その夜、新家の夢枕に神が現われ、「われを十村の岩佐家と龍賢寺の間にある空き地に祀れよ」とお告げになった。
そこで、村人達は、石塊を、お告げの場所に安置し、村の守護神とした。これが、白尾の住吉神社のおこりであるという。
御神体を納める神殿を造営しようとしたが、いよいよ御神殿が出来上がると、それが小さくて、石塊の御神体をどうしても安置する事が出来ない。再び夢枕「七堂伽藍を建立してくれればよいが、小さい神殿では、からだが焼けていたたまれぬ」という
お告げがあり、七堂伽藍が出来上がるまではと、もったいながら、茂る雌竹を背景に、御神体は、こけむすまま、今もなお神殿の外に雨ざらしになっておられる。
七塚の民話へ戻る
おまん狐【秋浜・七窪(宇ノ気)】
七塚と宇ノ気の堺を通る往還道は、むかし、人通りが少なく、夜になると、しっぽの大きな女狐が出て村人や旅人をだました。いつとはなしに、この女狐のことを、村人は「おまん狐」と呼んで、ひどく恐れた。
ある秋の夜の事であった。往還路を歩いていた薬売りの越中屋佐衛門が、「もし薬屋さん」と、女の声に呼び止められた。ふりかえると、おどろくほど美しい女が腹を押さえてかがみこんでいた。女が、「尾山(金沢)へ行く途中、急に腹がさしこんで苦しんでいる。どうかお助けください。」と、息もたえだえに頼むので、薬を取り出した佐衛門が、女に飲ませるため井戸へ身を乗り出したとたんに、ザブンと深い井戸に落ちてしまった。あくる朝、畑仕事に出た村人が、
コエダメに落ちて死んでいる旅の薬屋を見つけた。あたりには、大きな狐の足跡が点々と残っていた。
おりから、能登めぐりをすませた旅の修行僧が通りかかり、騒ぎを聞いて、「おまん狐」を退治するために、心を込めて石の地蔵さんを彫って、往還路に安置した。それから、「おまん狐」は姿を見せなくなった。
石の地蔵さんは、いま七窪の菅原神社にあるという。
七塚の民話へ戻る
ばかばか草【遠塚】
遠塚の浜には、春から秋にかけて「ばかばか」(カワラヨモギの一種)という草が生える。
「ばかばか」は、どんなに炎天が続いても、枯れずに生い茂る。
「ばかばか」は、イロリにくべると「蚊くすび」(蚊取り)に効き目があるので、「ヨサリ」(夕方)になると、村中の人々が
ザルやカゴを持って摘みにやってきた。
むかし、「お大師さま」(弘法大師)が、遠塚で一夜の宿を求められたとき、
あまりにも蚊やアブが多く村人たちが、困っているのを見かねて、真夏の浜でも枯れない「蚊くすび」の草を植えられた。
それが、この「ばかばか」だという。
七塚の民話へ戻る
お小夜の松【木津】
むかし、木津に弥助という働きもんの大工がいた。ある年の夏、越中の石動の町へ仕事に行ったとき、そこの庄屋の娘の「お小夜」と深い仲になった。庄屋おやじはガンコもんで、大事な娘をだますやつは町におけない、といって、弥助を追い出してしまった。
ところが、弥助の子をみごもった「お小夜」は、恋しい弥助が忘れられず、冬が来ると、とうとう家を抜け出して、弥助のいる木津の村へ急いだ。
その夜は、大そうな雪だった。はるばる雪の降りしきる越中坂を越えて津幡の宿まで来たが、
めざす木津の村も、弥助の家もどうしてもわからなった。
そして、ようよう木津にたどり着いたとき、精も魂も尽き果てた「お小夜」は、恋しい弥助に逢えずに死んでしまった。
そのころ、弥助は、殿様に召し抱えられて、「御大工」の棟梁になっていた。のちに、話を聞いた弥助は、殿様から松ノ木を一本頂戴して、「お小夜」の死んだ場所に植えた。松ノ木は、だんだん大きくなり、いつの間にか、一つの根から二本の幹が育って、ちょうど、恋しあう二人が仲良く結ばれているような姿になった。
後世になって、木津の村人は、松の根元にお地蔵様を建てて、「お小夜」の霊をなぐさめた。
これが、いま、木津と横山の堺にある「縁結び・連理の松」だという。
七塚の民話へ戻る
天からふった鯉【遠塚】
むかし、遠塚に弥左衛門という、たいそう親孝行な子どもがいた。弥左衛門の母は、中風で長い間寝たきりだった。
病気の母と、幼い弟や妹をかかえた弥左衛門のくらしは、いくら働いても楽にならなかった。
それでも弥左衛門は、苦しい暮らしの中で、母の好きな魚を獲っては食べさせていた。
ある年の冬、海が十日も荒れて、浜には一匹の魚も上がらなかった。何とかして母に魚を食わせたいと願う弥左衛門はあてのない魚のために毎日浜へ降りていった。ある日、フルミヤさんのうしろの笹薮で、突然、ガサガサと大きな音がした。弥左衛門は、笹薮をわけて入っていくと、二尺ほどもある大きな鯉がはねていた。
弥左衛門が、その鯉をとらえて母に食べさせると、長い間寝たきりだった母が急に元気になり、起き上がれるようになった。村人は、きっと、神様が親孝行をほめられて、天から、鯉を授けられたのだろうと、うわさしあった。
七塚の民話へ戻る
木も伐らずに草刈った【町内昔ばなし】
むかしむかし、ジジとババがおったと。ある日、ジジが山へ木を伐に、ババは川に洗濯に行ったと。
川の上から大きな芋が流れてきたと。ババは、芋を拾うて帰り、煮て食うたと。
ババは、芋を食いすぎて、でかい屁をこいたと。
山で木を伐っていたジジが、あんまり臭いもんで木も伐らずに草刈った(臭かった)と。オッカシャナァ。
七塚の民話へ戻る
お銀ま・こ銀ま【町内昔ばなし】
むかし、「お銀ま」「こ銀ま」という、かわいい姉妹がおったと。ママ母のオカカが、しょっちゅう姉妹をいじめたんやと。
トウト(父親)が商売で京へ出かけたと。その間に、オカカは、姉妹をいじめ殺して、裏の竹ヤブに埋めて、知らん顔しとったんやと。
トウトが帰ってきて、さがしても見つからなんだと。それからしばらくして、裏の竹ヤブの中から、悲しげな声で、「お銀ま」が「オトッツァンや、いまお帰りか、なんぼママ母に逢うたとて、カゴに水汲め、いわっしゃった」というたと。
声が消えたかと思うと、ヤブの竹が、ボキボキと折れたと。
それから、「こ銀ま」の声で「オトッツァンや、いまお帰りか、なんぼママ母に逢うたとて、灰で縄ぬえ、いわっしゃった」、
竹がまたボキボキと折れたと。
その次は、二人の声で「オトッツァンや、いまお帰りか、なんぼママ母に逢うたとて、土で庭掃け、いわっしゃった」、
ボキボキとまた竹が二、三本折れたと。
トウトが、びっくりして、竹の根元を掘ったら、娘たちが埋められとったと。それから、トウトは、持っていた鍬でオカカをぶち殺し、坊主になって娘の位牌を胸に諸国を歩いたんやと、何とカワイヤナッ。
七塚の民話へ戻る
ダラのアンサマ【町内昔ばなし】
むかしある所に、ダラ(馬鹿)なアンサマ(長男)がおったと。何もせんと遊んでばっかしおるもんで、親は、物売りでもさせようかと、茶と栗と柿と麸を持たせてやったと。ダラなアンサマは「チャックリ、カッキャ、フ、イランケ」「チャックリ、カッキャ、フ、イランケ」と言うて歩いたと。だれも、何の事かわからんもんで、一つも売れなんだと。
そこで、親は、何もかも一緒に言うから売れんのや、茶は茶で別々に、栗は栗で別々に、柿は柿で別々に、麩は麩で別々にいうて売らんなんぞ、と教えたと。そこで、ダラなアンサマは「茶は茶でベーツベツ」「栗は栗でベーツベツ」「柿は柿でベーツベツ」「麩は麩でベーツベツ」というて歩いたと。やっぱり一つも売れなんだと。オッカシャナァ。
むかし、ダラなアンサマがおったと。ヨメの実家で団子をはじめて食うて、あんまりおいしかったもんで、家へ帰ったら
ヨメサに作ってもらおうと、名前を忘れんように、道々、「団子、団子、ダンゴ、ダンゴ」と言いながら帰ったと。
坂道のところに高い石段があったと。そこで、思わず「どっこいしょ」掛け声をかけたはずみに、「団子」を忘れて
「どっこいしょ、どっこいしょ」になってしもうたと。家に着いてから、ヨメサに「どっこいしょ」を作れというたが、何の事やらわからん。腹立てたダラなアンサマが、そばにあったバギ(薪)でヨメサの頭をたたいたと。
ヨメサが「あ痛いたた、頭に団子ができた」といったら、ダラなアンサマが「それそれ、その団子を作れというがや」と
いうたと。オッカシャナァ。
むかし、ダラなアンサマがおったと。あるとき、お招ばれ(宴席に招待されること)に行くと、御膳にカニがのっていたと。
食べ方を知らんもんで弱っていると、隣りの客が「カニを食うときは、先にフンドシをはずして食うもんや」と教えたと。
ダラなアンサマは自分のフンドシを脱いでカニを食べたと。オッカシャナァ。
むかし、ダラなアンサマがおったと。親から、お湯が熱くて飲めんときはタックアン(沢庵漬)で、かきまわして飲めばいいと教えられていたと。ある日、ヨメサの実家へ招ばれて行ったら、風呂が熱うて入れなんだと。ムコサが「タックアン持ってこい」というもんで、おかしやなあと思って持っていくと、ダラなアンサマがタックアンを風呂に入れてかきまわしたと。
オッカシャナァ。
七塚の民話へ戻る
鯖(サバ)食った長次【町内昔ばなし】
むかし、長次という子供が、ヨサリ(夕方)になっても帰らんもんで、村中が「天狗に連れて行かれた」と大騒ぎになっていたと。
だれかが、天狗は鯖が大嫌いや、「(サバクタ)鯖食った長次」と呼べば、きっと返してくれるといったので、
村中の人が、「サバクタ長次」と呼びまわったら、長次が出てきたと。
それから、子供が行方知れずになると、みんなで「サバクタ何々」と呼ぶようになったと。
オトロシャナァ。
七塚の民話へ戻る
りくつこきの又次【町内昔ばなし】
むかし、又次が、綿入れ買いに行くというて、舟の櫓(ろ)を買うてきたと。どうしたと聞いたら、「綿入れ買うより、櫓をこぎや、なお温まる」と言うたと。落とし物したもんが、一生懸命探しとったら、又次が「さがすこたない、よそか在所に落ちとる」と言うたと。
又次に、「ワリや(お前は)、何で、さっきからオラの顔をじっと見とる」と聞いたら、又次は、「ワリや、オラの顔をじっと見とるさかいや」と言うたと。又次のいうこと、みんな、りくつやなあ〜
七塚の民話へ戻る
表屋理兵衛の夢【町内昔ばなし】
外日角の表屋理兵衛は、のちに入道向円と称するほど、信仰心があった。
その理兵衛が、明治八年一月十四日、正寅の刻(午前三時)、不思議な夢を見た。
住吉神社の境内に頭を北に、顔を西に向けて、うとうとしていると、にわかに十数人ばかりの男女が現われ、拝殿から鳥居までゴザを敷いた。
やがて、二脚の卓にお経を載せ十六、七才と中年ぐらいの二柱の神が、奥殿から現われた。理兵衛は、あわてて伸ばした足を縮めようとするが、どうしても縮められない。困っていると、若い方の神が、耳元に口を寄せて「汝に尊き法を授ける」といわれるが、よく聞き取れない。そこで、理兵衛は、一心に念仏を唱えた。
やがて、これは理兵衛の信心をお尋ねなのであろうと思い、日頃の信心の趣きを、神に申し上げると、その神は黙して坐り、頭を大地につけ深く礼をした。「これは勿体ない」と手を差しのべた時、神の姿が消え、目が醒めたという。
この夢を、因託寺の徳応得順に告げ、得順が絵師に頼み、絵にあらわしたのが、いま、外日角の瀬戸助冶家に伝わる
「夢枕感得図」であるという。
七塚の民話へ戻る
助實(すけざね)家の「面」【町内昔ばなし】
助実家は、木津でも古い家柄の一つである。いるのころか、年代は不詳だが二人の山伏が、木津に住み着き、一人は柿実(現、南家の先祖)、一人は、助実と名乗ったという。
この助実家のアマ(天井裏)にある「般若の面」は、古くから、誰いうことなく「見てはならぬぞ、見ると障りがあるぞ」といわれてきた。このため、助実家の人々も、遠い先祖から言い伝えられて来たものの、実際には、我が家の、どこに、その「面」があるのか、知らないままにすごしてきた。そして、この助実家の納戸に生まれた子供たちは、みな眼病に悩まされ、どんな医者にかかっても治らなかったという。
昭和のはじめころ、助実家の孫が、大阪に出て、ある易者に占ってもらったところ、「あなたの実家に伝わる秘宝が粗末にされている。ときには足の下にしている事もある。直ちにその秘法を神棚にあげて祀りなさい」といわれたという。そこで、家中を探したところ、納戸の天井裏に「面」があったので、早速とりおろし、賀茂神社の宮司のお祓いを受けて、神棚に安置した。
以後、助実家には眼病に悩むものもなく、平和な日々を送ることができるようになったとの事である。発見された「面」は、「般若の面」ではなく、狂言に用いる「祖父(おほじ)の面」であった。
この「面」は、桐の木で作られており、江戸後期の作りらしいが、誰が、かむっても、「面」は不思議と顔にピッタリと当てはまるという。
七塚の民話へ戻る
白尾のチャンギリゴ【白尾】
正月十四日の午後、白尾では、学校から帰ると、グループごとに、「ズリ」(そり)を持って集合し、二、三人一組となって各戸を回り、「チャンギリゴ、チャンギリゴ、チャンギリゴの号外や、銭なら一銭、紙なら一丁、薪なら一束、藁なら一把、なんかあったらくたーい」と呼びかけて、金品をもらう。もらったら、「男の子も女の子も、そだて、そだて」と、ほめ言葉をのべ、断られた場合は、「男の子も女の子も、ふんつぶせ、ふんつぶせ」と悪たれをいって帰る。
夕方グループごとに、砂山で青竹でやぐらを組み、いったん帰宅した後、翌日の午前四時ごろに出かけ、子供たちだけで「書初め」などを焼いた。昭和の初年まで続いていたが、戦時体制がきびしくなると消滅し、今は、校庭での「差義長」に一般化してしまった。
七塚の民話へ戻る
気象予測【全町】
浜どころの七塚地方では、かつて、「海」は住民の生死のカギを握っていた。海を恐れながらも、海に幸を求めて船を出す浜の人にとって、気象予測は、生活を左右し、生命を守るための不可欠の手段であった。そこで、いまは昔語りになりつつある気象予測の方法を、浜方の伝承文化の一つとして、掲げてみた。
・ヤスアイ(北東の風)が吹き続くと、時化の前兆(クダリ=南西の風が吹き返す。)
・宝達山にブタ雲がかかる日は、日中に大アイ(北東の風)が吹く。
・月に傘がかかると雨が近い。
・内灘の浜がホコル(砂塵が吹き上がる)と、強風が近づいてくるから注意。
・シラバ下り(晴天で南西の風のこと)が三日間吹くと、天気の変わり目だから注意。
・白山のカリ又に雲がかかると大時化が来る。
・夜、星が輝き照るのは天気の崩れる前兆。
・穴掘りガニが、山手のほうに穴を移動するときは時化の前兆、渚の方に移動するときは凪になる前兆。
・海に、ガスがかかっている間は波は穏やか。
・朝、一面に霜が降りると、霜荒れといって昼ごろからクダリ(南西の風)が吹く。
・アイの朝凪、クダリの夜凪。
・仏壇の線香の煙が、真っ直ぐに立てば天気、ゆらゆらするときは風が近づいている前兆。
・渚の地面が固ければ凪、時化が近づけばやわらかくなる。
・秋のころ、朝の天気が良すぎると、沖ビカタといって時化の前兆、その日は不漁。
・鰯が、沖合い遠くに獲れる時は、時化の前兆。
・シモ(北の方)の海鳴りは、好天の前兆、カミ(南の方)の海鳴りは時化の前兆。
・沖合いの虹が真っ直ぐ立てば、沖合いが時化ているから出漁しない事。
・朝日・夕日に紫面がたつ時は天気の荒れる前兆。
七塚の民話へ戻る
このページのトップへ戻る